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Archived no.004
連載 / INTERVIEW
連載|親子[artists]の関係性の美学vol.2 片山真理

片山真理に聞く
人(親)と人(娘)の間にある境界線

写真を中心とするインスタレーションの表現活動を行ってきたアーティスト・片山真理。理想の体、美醜、ジェンダーステレオタイプ、障がいなど、社会が見て見ぬ振りをしてきた身体にまつわるイメージについて、自らの身体を使い、鋭い問いを突きつけてきた。プライベートでは、5年前に女の子を出産。育児のなかで片山自身のなかに見えてきたものとは何か、話を聞いた。

関係性のなかで表現を模索する

──お子さんをどのような性格だと思われますか?

片山 私から見ると、すごくよく周りを見ているなと思いますね。彼女は小さい頃からいろんな人に会う機会が多かったんです。スタジオにも連れて行ってますし、自宅にも美術関係者やプロジェクトの協働相手が来たりします。ドキュメンタリーを撮っているオーストリア人の友人が滞在している時期もありました。そんなふうに家の中でいろんな人を見ながら、接し方を模索しているのだと思います。ひょうきんなところもあるのですが、それも状況を見て「この人ならいいかな」と選んでしているように見えますし、心許せる相手にはすぐ自分を出したりしますね。

──自分の立ち位置を意識的に定めようとしていますね。お子さん自身も、何かをつくったり表現することがあるのでしょうか。

片山 自分の思っていることや言いたいこと、伝えたいことを表現する方法を、彼女なりに色々と使って探しているような気がします。赤ちゃんだったら泣くこととか物を投げることだったりしますが、彼女はそもそも言語の取得が早かったので、文章をよく書きます。例えばいまだったら絵日記を描いたり。それ以外にも、ドキュメンタリーの撮影をしているカメラマンに「カメラの使い方を教えてくれ」と言ったりして、私や私のまわりの作家さんらが使っている撮影機材や(DJの夫が仕事で使っている)音楽機材などを見て、言語以外の表現方法も模索している。私の前では恥ずかしがって言わないんですが……。

おそらく、自分がそのカメラを使ってみたいという好奇心というよりも、カメラを使うことによって自分が表現したいものが表現できる自信というか理解があるんじゃないかなって思います。

──片山さんの前ではカメラを習わない理由は、母親だからなのでしょうか。それともライバルみたいに思っているのでしょうか。

片山 おそらくライバルのようにも感じているのではないでしょうか。例えば、私が何かつくっていると同じものを使いたがるし、「これはわたしの。あれはママの」と言ったりします。私と交互に使うのではなく、自分のものと棲み分ける意識が強い。同じものをそれぞれに所有しようとするんですね。機材や言葉、音楽なども同様に、自分が発信すること・表現することを、同じようにやりたいと思っているようです。周りにいろんな表現手法を持っている大人がたくさんいるので、「これをしたらこうなるだろうな」とか「こうしたらこういうことができるから自分もやってみよう」という想像はできるみたいなんです。でも、さすがにまだ世の中に出てきて5年しか経っていないので、ノウハウが足りなくて、「なんでできないんだろう」ともなる。実際に体を動かすところで起こる想像とのギャップに、まだまだ葛藤している印象ですね。うまくできなくて恥ずかしいから、私の前ではやらないのかもしれないです。

──自分に厳しいのですね。普段の生活においては、どのような感じなのですか?

片山 彼女が通っている保育園は、 先生が11人いるのに園児が30人もいないという、少人数の保育園です。キャベツ畑に囲まれた田舎にある保育園なので、ごく普通の子たちが集まっていて、テレビの話題や流行りものとかもあります。そこで彼女は、彼らとなるべく歩幅を合わせよう、頑張って追いつこうと、自分なりに努力をしています。例えば、ディズニーにまったく興味がないのに「アナ雪(アナと雪の女王)」のグッズを突然欲しがったりします。私もディズニーが好きなので早速見せてあげるのですが、自分自身は興味ないみたいで結局10分で飽きちゃったり。それについては「好きなことを好きなようにやればいいんだよ」と伝えているのですが、やっぱりそういう共通言語を持とうとする。彼らに合わせることが彼女のやりたいことならばそれを応援したいなと思うので、「彼女は別に好きじゃないだろうにな」と思いながらグッズを揃えてあげました。

片山の子どもが絵を描いている様子

他人への距離感

──そんな娘さんと片山さんは、どのような関係性なのでしょうか。

片山 この子がお腹の中にいる時から、「この子は私とは別の人間」と思ってきました。この人は独立した人間で私と同じ意見を持つわけではないから、彼女の選択や生き方を尊重しようと。家族もひとつの社会だと思うので、「ママの子供でしょ」と思わないように意識してました。例えば、ご飯を食べたくないとか出かけたくないだとか、彼女が何かを主張したときに「 言うことを聞け」ではなくて「なるほどね、食べたくないわけね。じゃあ、どうしたいの」というような姿勢で関わってきましたし、そうするようにいまも努めています。だからまったく言うことを聞かないですし、「言うことを聞く」という感覚もないですね(笑)。

いっぽうで、「私はあなたのお母さんだけど、私はこうしたいんだ」というのをわざと娘の前で曲げないようにして、きちんと伝えるようにしています。彼女がどうこうではなく「私はこうしたいからこうするよ」と。でも彼女も「イヤ!」と言うことがよくあります。だから、どちらも譲らないんです。「ママも1人の人間だからね。あなたのことを尊重するけど、私のことも尊重しなさいよ」という付き合いをしています。

──あくまで対等な関係性なんですね。片山さんは、お子さんとの関係性に限らず誰に対してもそのようなスタンスなのでしょうか?

片山 そうかもしれないですね。例えばすごく嫌なことをされたときは「 なんでそうするのよ」と反発するよりは、「えー、そういう風なことを言うんだ。なんで?」と感じます(笑)。「普通はこうでしょ!」と怒ることはないかもしれないですね。別に冷たい意味ではなく、あくまで第三者としてその人がいて、 いまはたまたまそういう考えなんだなって思います。

普通の人は、誰かに対して「こうしてほしい」という気持ちをを大なり小なり思っている気がします。それが叶えばラッキーだし、叶わなかったときは反発やいさかいが発生すると思うのですが、 私の場合はなかなかそうならないのかもしれないです。先に100通りぐらいの答えを勝手に考えちゃって、本人に聞けば一発で答えがわかるのに「こうかなぁ、あぁかなぁ、いや違うかなぁ」と、自分の中で脳内会議がされます。基本的に自分のことを疑っていたいし、「本当にそうなの?」と自分の考えも正しいとは思っていない。だから娘に対する態度も、大人に対するそれと似ているかのもしれないですね。

──他者に対するそのような姿勢はもともとなのでしょうか。片山さんの作品などを拝見する限りで申し上げると、もっと主観的な考え方をされているのかと思っていました。

片山 そうですね、ずっとずっと小さい頃からかもしれないですね。自分のことでさえ客観的に見ています。「岡山芸術交流2022」のステイトメントでも書きましたが、アーティストの片山さんは、すごく意見がはっきりしている。それがアーティストとしての仕事だと思うし、 あやふやなことは言いたくないし、外に発表する責任は態度で示すしかないと思っているので、 ちゃんと言葉にしたり作品で訴えるようにしています。

でも、そうでないときの片山さんは、いろんなものを見聞きして全部インプットして感じたい人。自分らしさで 枠をつくりたくないというか、自分ってこうだよねと思えば思うほど、自分らしさのケージに自らを押し込めてしまうし、そうなると、それに入らない事象や経験、意見を受け付けなくなってしまうと思うんですよね。

特に、 可能な限り同時代に生きるすべてのものをインプットしたうえで表現をしていくことが、 現代アーティストとしての姿勢だと思います。作品を制作するようになった10代後半ぐらいからかな、意識的にそうしていると思います。

そもそも娘が生まれてからの5年間、「岡山芸術交流 2022」で出品した《possession》のような空間インスタレーションを発表ことがなかなかできませんでした。彼女と暮らした5年の経験が、ああいう空間構成につながったんじゃないかと思います。

あの展示を経て、自分はやっぱりインスタレーション作家なんだと思い出せた感じがします。様々な選択肢があるなかで、手縫いのオブジェだったり石膏作品だったり、映像や身体的なパフォーマンスだったり。写真もその選択肢のひとつでした。それら全部を内包できて、かつある種、身体的だと思うので、やりたいことを表現するのにインスタレーションはいちばんしっくり方法ですね。

──いまのお話を伺うと、セルフポートレイトのシリーズの見え方が180度変わりますね。これまでは「本当の私はこうよ」と主張しているように見えていましたが、 実際はアーティストとしての自分を客観的につくり込み、と同時に対比させながら素の自分を捉え直そうとしている。さらにはインスタレーションは空間なので、様々な角度の片山さんが表現されている。片山さんご自身が、多面体的な存在として自身を認識・俯瞰しようとされているのかなと感じました。

片山 セルフポートレイトに映っている人は他人ですよね。「作品に映っている自身=自分」とはなかなか思えない。だからこそ、作品としてアウトプットされると、 呼吸のようにまたちがう自分をインプットできるのです。

岡山芸術交流 2022で展示された、片山真理《possession》
Photo: Yasushi Ichikawa
© 2022 Okayama Art Summit Executive committee

その瞬間の光や空間を焼き付ける

──お子さんからクリエイティビティを感じたり影響を受けることはありますか。

片山 多大にありますね。そもそも彼女が生まれたことによる影響として、生後から一年ぐらいの間、毎日成長して変わっていく時間や空気を真空パックしたい、という気持ちに駆られました。それからはフィルムカメラを選択するようにしています。フィルム写真って、化学変化で空間の光をフィルムに焼きつけて吸着させるので、その瞬間の光や空間の何らかを残せるような感じがするんですよね。なので、娘が生まれたことがきっかけでフィルムを使う意味が見えてきて、いまはデジタルで撮ることより多くなってきちゃいました。

──作品としてはどういった意味づけができるのでしょうか?

片山 デジタルで撮っていたときは、 イメージを残せればよかったんです。まずスケッチをしてそれ通りにポージングして、写真としてイメージ化するのが目的だったので、データに落とし込めれば良かった。でもフィルムになると、ある種オブジェ的になる。そのときの光がそのまま焼きつけられるという事実の方が大事になってくるんです。

最近では、裁縫でオブジェをつくっていると彼女も同じ素材を使って隣で制作し始めるので「こうした方がいいんじゃないか」とアドバイスしてきますね(笑)。 彼女が生まれた頃に、そういう未来をちょっと想像しましたが、まさか5年で実現するとは、と驚いています(笑)。

人生に2つの分かれ道があったら私は面白い方に行きたいので、まずは彼女の言いなりになってみる。そうすると「ここには置かないだろう」というところに素材を置いたりするので、 全然ちがう道が見えてくるんです。

彼女の描く絵が私のスケッチに似てると時々言われます。やっぱりインプットされたものがアウトプットされるんだなとつくづく感じます。いろんな人の絵の描き方や画材の使い方をインプットして真似したがりますが、最終的にあらごしして残ったものが彼女の作品に表れていると思います。それは子供やアーティストに限らず人間すべてがそうなのだなと思うと、自分のなかに何をどれだけ取り入れていくかが重要ですよね。それが教育ということなのですし、作家として表現することは誰かに何かが伝わるということなので、だからこそ、その責任感みたいなのも彼女を通して感じるようになってきました。 これからもそういったことを考えながら表現していきたいと思います。

片山の子どもが描いた「ヨガをするママ」

片山 真理(かたやま まり)

1987年、埼玉生まれ。2012年東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程修了。
主な展示に2021年「home again」ヨーロッパ写真美術館(パリ)、2019年「第58回ヴェネチア・ビエン ナーレ」アルセナーレ、ジャルディーニ(ヴェネチア)、「Broken Heart」White Rainbow(ロンドン)、2017 年「無垢と経験の写真 日本の新進作家 vol.14」東京都写真美術館(東京)、2016年「六本木クロッシング 2016展:僕の身体、あなたの声」森美術館(東京)、2013年「あいちトリエンナーレ 2013」納屋橋会場(愛知)など。作品はテート・モダン(ロンドン)、コレクション アントーニ デ ガールベルト(パリ)、森美術館(東京)、東京都写真美術館(東京)などに収蔵されている。2012年アートアワードトーキョー丸の内2012グランプリ、2019年第35回写真の町東川賞新人作家賞、2020年第45回木村伊兵衛写真賞を受賞。主な出版物に2019年「GIFT」United Vagabondsがある。
http://marikatayama.com